【早期英語教育の表と裏】〜第3回〜英語教育の目標と方法

早期英語教育の表と裏 ― 英語教育改革と学習者のスタンス

「第2回:英語はひとつではないでは、英語教育の目標として考えられる英語力はひとつではないことや英語学習の効果的な順序について考えました。今回も、目標と方法についてもう少し考えを深めてみたいと思います。

第3回 英語教育の目標と方法

英語教育をめぐって様々な意見や見方があることをご紹介してきましたが、このような混乱は最近のことに限りません。日本は地理的に独立した環境(「島国」)にあるため、日常的に複数の言語に触れる機会はなく、基本的にひとつの言語で長い歴史を歩んできました。それだけに日本語以外の言語は常に「外国語」であり、時代によって必要とされた言語は違いますが、いつも「外国語とどのように付き合うか」は難しい問題だったのです。

すり替わった論点

英語についても、明治に入り「開国」とともに複数の外国語と付き合うことになったのですが、次第にそれは英語中心となり、特に米国による占領政策の影響が強く現れた第二次大戦後はその色彩が決定的となりました。その中で、「日本人が目指すべき英語力」についても何度か大きな論争がありました。*

多くの場合、その議論は「実用か」、「教養か」の二つの軸をめぐって戦われましたが、現在の英語教育に関する議論はこの水平線を超えていて、「どのようなレベルや内容で実用的か」あるいは、「誰に対して、いつから教育するのか」といった点に論点が移っています。もはや、「実用」は既定の路線となっているのです。

ところが、第2回:英語はひとつではないでも触れたように、この路線がいつ、どのように決まったのかについては未だ曖昧なところがあります。事実、この問題を審議した「英語教育の在り方に関する有識者会議」(2014年)においても、グローバル化という現実に追従することに終始する経済界の委員からは「実用」が主張される一方で、学術関係(その多くは外国語の専門家)からは「英語だけにとどまらない言葉の力の育成」こそが急務だという指摘がされていて、この問題の核心に触れる両者の乖離を埋めるような議論は結局ないまま、既定路線(?)の「実用性強化」の方向で報告書はまとめられていきます。

一見「現実離れ」の学術界と「現実重視」の経済界との埋めがたい溝のように見えるこの関係ですが、実はもうひとつ別の「現実」もあるのです。

* その典型として「平泉・渡部論争」(1974年)があります。これは当時参議院議員であった平泉渉が「実用英語」の必要を唱えたのに対して上智大学教授の渡部昇一が「教養英語」を主張し、広く国民的な議論に発展したものです。

より深刻な現実

情報通信技術(ICT)の研究者であり、AIの先進的な研究にも取り組んでいる国立情報学研究所の新井紀子教授は、近著『AI v.s. 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社 2018)で、日本の小学生から高校生までに見られる日本語能力の低さを実証データをもとに指摘して、未来の話ではなく、現在の(未発達な)AIにも劣る子どもたちの言語能力がどのような将来を招く可能性があるのかについて言及しています。

新井教授の調査によると、教科書に書かれている文章や図表の意味を正しく読み取れない中・高生は、情報の種類によって違いはあるものの、全体の3〜7割もいるというのです。教科書は子どもの学習の基本的な教材であり、子どもが理解できるように工夫して書かれているはずですが、子どもたちの日本語読解力の現実はその前提を大きく覆すものです。現実を重視すると言うならば、何よりもこのような現実に立った教育を考えるのが道理ではないでしょうか。

先進的な取り組みが示唆すること

ここでも私たちは注意しなければなりません。それは、「だから英語よりも日本語だ」といった二者択一的な発想に直ちに陥らないことです。これに関して、ひとつヒントとなりそうなアイデアがあります。それは、「複言語・複文化主義」という考え方です。

「複言語・複文化主義」とは、CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)の土台にある考え方です。グローバル化社会では複数の言語を必要に応じて駆使する必要があり、また複数の言語に習熟する過程で母語を含む言語の社会性や文化性に気づくことができ、それが母語の運用能力を高めるとともに、多様な文化の理解や承認にもつながるという考え方です。

CEFRをまとめた欧州評議会はまさに多様な国際的な枠組みであるヨーロッパの統合を目指す機関であり、各国の結びつきを確かなものにするためには、多様性の理解と承認が必要条件です。このような背景の中で、現在EU圏内では学校教育において母語+他の外国語2つを学習する方針を取っています。その際、すべての言語を同じレベルまで習得することは求められておらず、各人の必要に応じて(例えば、フランス語は業務レベルの文章を読める程度、ドイツ語は日常会話ができる程度までといった具合で)習得すればよいとされています。このときに、「どの程度まで」を判断する参考として作られたのがCEFRです。ですから、CEFRは各個人が学習において判断するための枠組みであって、それを一律の基準として使ったり、それで第三者が評価すること自体、本来の意図とは全く異なります。

大切なことは複数の言語を学び、それを介して複数の文化に触れるチャンネルをもつことであり、その手助けをするための道具としてCEFRがあるということは、しっかり理解しておく必要があります。 

グローバル化の変質

日本でグローバル化といえば、アメリカを中心とした経済のネットワークが世界を覆っているといったイメージが強く、今回の英語教育の改革もそのイメージに少なからず影響を受けているようです。しかし、世界ではグローバル化はもっと豊かな広がりをもった変化・動向として理解されています。ですから、グローバル化=英語必修論といった発想がいかに偏ったものの見方であり、その考え方に沿った教育では将来世界に通用する人材は十分に育ってこない恐れがあります。

事実、大学では今回の英語教育改革の影響で、英語以外の外国語の授業が急速に減っています。最も多様な可能性を追求すべき大学で、「グローバル化=多様性」の承認が「グローバル化=価値の一元化」に変質しているのではないでしょうか。

英語が、今後しばらくは世界の共通語として使われることは間違いありません。(もっとも、今世紀中にも中国がアメリカに代わり世界第一の経済大国になるという予測もあります。そうしたら、グローバル化=中国語必修になるのでしょうか?)したがって、英語を身につける価値は十分にあるでしょう。

しかしそのことと、あるレベルの英語力を国民すべてに求めることとは、すぐに結びつくものではありません。そのような認識に立った上で、「どのような英語力が日本人には必要なのか」を考え、そのための方法を検討した方が、英語にとっても、またその基盤となる日本語にとっても、豊かな可能性が開けてくるように思うのは、筆者一人でしょうか。

(第3回おわり)

第4回:英語教育改革に向けた課題

この記事を誰かに共有する