日本人が外国語を取得しようとしてきた涙ぐましい歴史

連載:今さら聞けない、英語4技能って何?

第2回: 日本人が外国語を取得しようとしてきた涙ぐましい歴史

連載第二回

前回は、日本語の特殊性と国際語になりえなかった理由について考えました。では、このように特殊な性格をもった言葉を使う日本人にとって、これまで外国語とはどのようなものだったのでしょう。

日本の国内にいる限りは言葉について何の不便も感じなかった日本人でしたが、これまでも世界の情報を得ようとすると日本語だけではほとんど役に立ちませんでした。そのため、日本語と共通性のない(当然、習得にも苦労する)外国語と涙ぐましい努力を重ねながら格闘してきた歴史があります。

外国語との取り組みが歴史的にクローズアップされるのは、国家として外国語が必要になったときです。例えば、日本をひとつの「国」と意識し始め、周辺の国に負けない「国造り」を急いで進めなければいけないと考えた古代の日本では、当時の先進国であった中国から様々な知識や文化を輸入するため、中国語の習得が重要な課題になりました。

また、戦国時代には西洋から新たな武器である鉄砲が伝来しました。この頃の日本は貴族に変わって武士が国の中心になろうとしていた時期で、トップの座を争って激しい戦闘が繰り返されていましたが、鉄砲はそれまでの戦闘の仕方を一変させるほどの大きな影響力をもっていました。この鉄砲の伝来をきっかけに、日本人が思いつくこともできなかった強力な武器を生み出した世界(西洋)に対する関心が急速に高まり、その知識を吸収するために西洋語(ポルトガル語やオランダ語)を習得しようとする動きが生まれてきます。

その後徳川幕府が全国を統一し、強固な体制を固めると、今度はその体制を維持するために鎖国という外国との交渉をあえて断つ政策をとったために外国との接触はごく限られたものとなり、外国語の必要性もしばらくの間は下火になりました(*1)。

*1 外国語は幕府が諸外国の情勢を知るためにのみ必要とされ、「通詞」と呼ばれた幕府の通訳が代々伝承する特殊技能と考えられた。

しかし200年以上続いた鎖国政策も、「黒船」(鋼鉄で鎧われた蒸気機関で動く大型船)やそれまで日本にあったものとは比較にならないほどの威力と飛距離を見せつけた「西洋砲術」の脅威で日本を震撼させたペリー艦隊が来航したことをきっかけに国内では様々な混乱が生じ、短期間のうちに幕を閉じます。その混乱の末、「明治維新」となります。

日本の新たな覇者となった明治政府にとって最大の課題は、当時アジア諸国を次々と植民地化していた欧米諸国に屈服することなく、ひとつの国として日本の独立を確保することでした。それには、短期間のうちに欧米諸国の進んだ文明に追いつくことが絶対条件でした。明治政府は国の予算規模を無視したような費用を投じて、最新の知識を吸収しようとしました。そのためには、欧米語の習得が不可欠となります(*2)。

*2 例えば、国家の基盤を支える法体系は主にドイツやフランスに学んだ。また、工学はイギリスやアメリカ合衆国に、医学はドイツに、軍事面ではドイツ・フランス・イギリスにと、学ぶ相手によって様々な外国語を習得しなければならなかった。

ただし、その学び方は日本人が自ら諸外国に出向いて学ぶことは少なくて、どちらかといえば文献を通じて(あるいは、外国人を日本に招いて)学ぶ形が中心でした(*3)。そしてそれは主に大学で学ぶこととされ、大学までの学校では大学で学ぶための準備教育をすることにしたのでした。

*3 外国語を外国語のまま吸収するのではなく、一旦日本語に置き換えてから学ぶというこのスタイルは、欧米由来の学術用語を新たな日本語を考案することで翻訳し、徐々に日本語だけで欧米文明を学べる環境を日本国内に作り上げるようになった。アジアの中でも、日本のように母国語だけで高等教育を受けられる国は極めて少ない。

このような事情から、現在のような学校体系が整えられるときには、外国語の習得は大学につながる上級学校の科目として位置づけられ、またそこで必要になる外国語の力も「文献を正確に読み取る力」に重点が置かれることになりました。自ら外国に出向くことが極めてまれなこの時代では、双方向的なコミュニケーションの力は必要なかったからです。それはごく一部の、外国との窓口を務めるような、いわゆる国を代表するような各界のエリートだけが必要な技能でした。


第3回:グローバル化により第二の開国が始まった


 

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